■ 一九九八年のキャッチボール (p.7-p.18)
 私はかつて、決して出られない部屋にいた。空への執着。そして、貸し出す本を通じて知った彼。
 見知らぬ空の話を聞くのが病的に好きだった。事あるごとに、印象的だった空のことを人から聞きたがった。そうやって、自分の頭の中の知識と、実際とのギャップを埋めることに夢中になった。けれど世の中の人は、それほど空の話はしたがらないものらしかった。……

■ 二つの穴が (p.19-p.30)
 いつものコンビニエンスストアで水を買う。違っていたのは、店員とその対応。その水を飲むと……。
 温めますかと聞かれたので、何の気なしにお願いしますと答えた。起きがけで、ぼうっとしていたこともあるだろう。千円札を差し出したところで、ふと今日買ったのはペットボトルのミネラルウォーターだけだったことに思い至った。……

■ 竜頭 (p.31-p.38)
 腕時計を修理に出した。一体いくらかかるのだろう。左の手首が、どうにも心許ない。
 お金はない。ただでさえかつかつの給料が、三ヶ月後にはまた下がるとのお触れがあったばっかりだ。少し前には彼氏と電話して、「こういうことじゃ、将来に希望なんて持てないよねぇ」とぐちりあったところだ。そんなときに、腕時計を壊してしまった。……

■ 〈掌編群I〉 時間を勉強した男 (p.39-p.46)
 人間は不器用だ。時間と空間を、こんなにも危なっかしく浮遊する。掌編7編。
 人生をできるだけ長引かせたい男がいた。男は時間を勉強した。そして、音や振動などの刺激が極端に制限された環境では、時間の流れがゆっくり感じられることを知った。……

■ 街の地図 (p.47-p.52)
 若年層の失業率改善のため、施行された緊急雇用策。地図に関わる仕事を任されて……。
 天窓のある地下の小部屋で、この街の地中に埋められている様々な管の口径と長さを記録する仕事をしている。五百分の一の縮尺で作られたA〇サイズの図面に、資料を元にして水道管がある位置の座標を落とし、ホルダーペンで線を引く。……

■ 探偵小説 (p.53-p.60)
 市井の探偵、夢の共演。全ての可能性が排除された時、犯人で有り得る人物は誰か。
 探偵は、いや、探偵達は困っていた。この中に犯人がいるのはわかっている。この場にいるのは、犯人以外、みんな探偵だからだ。ところが、その犯人が誰だかわからないというので、探偵達は弱り果てているのだ。「皆さん、落ち着きましょう」……

■ 投げたボールは戻ってくる (p.61-p.70)
 北陸新幹線はくたか号。金沢から帰るために乗ったその車内で、僕達は隣席の老人に声をかけられる。
 時刻表の上では二十三分間の出来事だった。発車時間ぎりぎりに僕と美葉留さんが乗り込むと、自由席車両は意外にも混んでいた。日曜日の夕方だからだろう。ほとんど完成したクロスワードの、まだ解いていないマス目を見つけるかのように、僕達は……

■ 〈掌編群II〉 無修正アンビバレンス (p.71-p.112)
 愛も素っ気もない。「文字書きさんに100のお題」に140字小説で答えた、掌編100編。
 貴方というひとは、名画を求めて世界中を回るくせに、幼い娘の描くクレヨン画には目もくれませんでしたね。でもいいんです。貴方は決して……

■ 喇叭 (p.113-p.122)
 父。父から聞く母。父から聞く母から生まれたはずの私。割れた喇叭の音が鳴る。
 昔の家を片付けていて、私は一枚の写真を見つけたのだ。私の母は狂人だったが、とても美しい人であった。――というのは、父から聞いた話である。母が不意の病で亡くなったとき、何の覚悟もできていなかった父は、母を連想させるものに片っ端から……

■ 夏の緑 (p.123-p.142)
 古本屋に戻ってきた若さんと、私――緑の、芥川龍之介「地獄変」をめぐる、ひと夏の物語。
 梅雨が明けました。重たい雲は空を去り、せっかちな蝉は鳴き出しました。気がふれそうな暑さの日々が、間もなく始まることでしょう。蔵書房のおじさんが倒れたと聞きました。蔵書房は古本屋さんです。店内には、……

■ 一羽の鳥が飛行機から飛び降りる (p.143-p.164)
 高度な知能を持つ生き物が発見された。その百年後、〈鳥〉と〈坊や〉の短い逢瀬。
 ガールは海の上を飛んできて、人間に捕まりました。長い首を力なく垂らして水面に墜落しかけていたのを、近くの総合科学研究所から出ていた探索船が偶然発見し、保護したのです。ガールはすぐ、内地の研究所に移されました。研究所の人間は最初、……

■ 〈掌編群III〉 エクストラ (p.165-p.172)
 些細な欠片を失くしたくなければ、名前をつけておくことだ。そう、日記のように。掌編10編。
 和柄の傘を選んでいたら、若い店員がそばに来て、金魚の柄がお薦めですとしきりに言う。私が小毬の柄に決めてからも、まだ金魚を推していた。……

■ 犬六夜 (p.173-p.182)
 劇場には様々なにおいが立ち込めていた。食餌を求めて居着いた犬は、人間の悲喜劇を目にする。
 その奇妙な劇場の裏手にいると演者達が食事をくれることがあったので、私はしばらくそこに居着くことにした。「あら、こんなところに、犬っころがいるよ」私は漂う強烈なにおいに思わずたじろぎ、物陰に隠れようとした。こちらに話しかけてくるような人間は、私に甘い。……

■ くたばれクリスマス (p.183-p.194)
 たった一つの目的のためにつくられたロボット。クリスマスイブの日、彼女は出動した。
 ロボットは人間を傷つけてはならない。人間から与えられた命令に従わなくてはならない。そしてこれらの原則に反さない限り、自己を守らなくてはならない。ハルヤが作ったロボットも、この三原則に則っていた。……

■ 死体隠しにうってつけの朝 (p.195-p.208)
 死体を隠す瞬間を見つけた男は、脅迫者となった。疑問は一つ――なぜ目撃することができたのか?
 一月一日の早朝で、快晴だった。まったく、この男はそんな日に死体を隠すべきではなかったのだ。時間には、故意に遅れた。待ち合わせ場所として、駅から十分ほど歩いた所にある喫茶店を選んだ。外回り中の営業が休憩に立ち寄るような店なので、……

■ やうやうしろく (p.209-p.234)
 最新式の照明器具を開発中の天才・正岡先生。先生の悩みはもっぱら家庭にあるようで……。
 「息子が懐いてくれないんです」正岡正子先生は、物憂げに細い首を振った。「はあ」僕は右手にペンを、左手にメモ帳を持ったまま、気のない返事をした。「正岡先生、確か先月結婚されたばかりですよね」……

■ 〈掌編群IV〉 高速移動破壊 (p.235-p.248)
 終わりが近付く。消えていくものも、消えてしまったはずのものも、今はまだここにある。掌編5編。
 透明人間になったら何をするか、という議論が仲間内で始まった。そこで、「実は私は透明になれる」と告白した。ただし、人から見えなくなっている間、私は非常に速く動き続けなければならない。……

■ かたらずの歌 (p.249-p.260)
 言葉を音で理解できない者が大半を占める時代。絶対五十音感を持つ勝浦は、ある選択を迫られる。
 勝浦は、ちょうど夕飯時に帰宅した。そして、食卓のテレビがミュートになっていることに怒り出した。「湖恵がいるときは、必ず音を聞かせろと言っておいただろう」そう言うと、自らリモコンを取り上げて、音声をオンにした。妻の美由紀は、苦しそうに眉を寄せた。……

■ カレー一〇七 (p.261-p.299)
 金曜日になると、僕の部屋にはアパートのおかしな住人達が集まってくる。カレーを囲む青春の物語。
 そのとき、チャイムが鳴った。僕は、当たり前の一人暮らしの学生として警戒した。僕の部屋のチャイムを押す人間なんて、越してきてからのこの数ヶ月、新聞か保険か――ともかく肩書に《勧誘員》がつく人しかいなかった。後から居留守も使えるように、……


※ 収録作品の初出誌について
 『投げたボールは戻ってくる』は、2009-2010年頃に発行された上記5冊の同人誌から、わたりさえこ(旧名義・鳥獲)の小説全てを再録しています。
 また、他サークルから発行された合同誌に寄稿した小説も、数編収録しました。再録を快く許可していただいた各誌のご担当者様に御礼申し上げます。
 いずれの作品も、内容に大きく影響するような加筆・修正は今回行っておりません。お求めの際は、その点をご了承いただきますようお願いいたします。

【初出一覧】
・『百読は一書に如かず』(千葉大学文藝部新歓本、鳥獲名義、2008年4月8日)…… 「現代自動販売機ことなさけ」
・『一九九八年のキャッチボール』(鳥獲名義、2009年2月15日)…… 「二つの穴が」「高速移動破壊」「一九九八年のキャッチボール」「ポテトと献血」「鈴木さんがいっぱい」「かたらずの歌」
・『カレー一〇七』(2009年12月6日)…… 「カレー一〇七」「竜頭」
・『ボオドレエルの一行未満。』(合同誌、2010年2月14日)…… 「夏の緑」
・『一羽の鳥が飛行機から飛び降りる』(2010年5月23日)…… 「時間を勉強した男」「桜の名所」「私のトラウマ」「喇叭」「おばけ」「水と毒蛇」「たこ焼き屋の問題」「街の地図」「剣豪小説」「探偵小説」「ブラックホール」「一羽の鳥が飛行機から飛び降りる」
・『幾夜一夜 第一集』(合同誌、シアワセモノマニア発行、2010年5月23日)…… 「犬六夜」
・『幾夜一夜 第四集』(合同誌、シアワセモノマニア発行、2010年12月5日)…… 「くたばれクリスマス」
・『HARVEST vol.1』(合同誌、PLAYBOX PROJECT発行、2010年12月5日)…… 「やうやうしろく」
・『無修正アンビバレンス』(2010年12月12日)…… 〈掌編群U 無修正アンビバレンス〉に収録した「クレヨン」以下全100編、〈掌編群V エクストラ〉に収録した「和柄の傘」以下全10編
・未公開(2010年7-9月執筆)…… 「死体隠しにうってつけの朝」
・書き下ろし(2015年1-3月執筆)…… 「投げたボールは戻ってくる」


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